東アジアのアイデンティティと共存
このページでは、東アジアの相互理解につながる活動をされている方に、日々の取り組みやその活動にこめた想いについてコラムをご寄稿いただいています。
今回は、「アジア回廊 現代美術展」に出展されている、アーティストのキムスージャさんです。
//////////
韓国、大邱広域市にまつわる思い出
私の出生地である大邱での記憶はとても幼い頃のものである。10代の初めまで頻繁に引っ越しをしており、大邱と他の都市や村を行ったり来たりしていた。だからか、一つの都市に関する私の記憶は、各都市との関係によって特定のイメージとして心に染みこみ、他の都市の記憶と共有されている。終わりなき旅の停留所のように。
アジア回廊のプロジェクトに取り組んでいる間、京都にいることが大邱の思い出を蘇らせる。
幼い頃、母方の祖父が大邱の薬令通りに住んでいた。そこは大邱靴下所という韓国最初のシルク靴下工場が設立されたところであり、日本からシルク靴下製造機を輸入していた。その薬令通り(中国の漢方の店が連なる通り)と祖父母が住んでいた池のある韓屋(韓国の伝統的な家屋)の雰囲気が、今の京都の町家の雰囲気と似通っている。薬令通りに染み入った漢方の独特な香りは忘れないだろう。祖父の下で働いていた職員が結婚をした時、祖父が「半月堂」という金銀細工店で買った贈り物を渡したのだが、現在その名が大邱市内の一つの里標として残っている。バンチョンの渓流に、染色され、あるいは洗濯され、乾かされた長い布が吊るされていた。そのイメージが、今日まで私の記憶の片隅に残っている。これは、大邱が繊維の都市だということ、そして私の活動に影響を与えているということを確認できる記憶である。
今回、アジア回廊に参加することで、東アジア文化都市2017京都のプロジェクトの連携都市である大邱と京都に再び出会えることを嬉しく思っており、さらに京都を経験し学びたいと考えている。また、東アジアの都市と持続的で多方面な意義ある交流がなされることを期待している。
韓国のポジャギ、ボッタリ等の文化
私がボッタリを包むために使用している布は、実は既存のポジャギではなく、イブルボと呼ばれる布団を装飾したり包んだりする大きな風呂敷である。まずそれは、画家としてのアイデンティティを堅持し創作してきた私にとって、一つの「タブロー」として平面構造に関する持続的な質問を投げかける媒体である。イブルボは、既に体の痕跡と記憶で染められている。また、イブルボという“場所”は私たちが生まれ、愛し、夢を見て、苦しみ死んでいく「生のフレーム」でもある。だからこそ私は、ボッタリを包むために作られたポジャキではなく、イブルボを絶えず用いてきた。さらには、既に誰かによって使い古され捨てられたイブルボに、主に古着を入れて包んできた。これはまさしく、私が他人の体と生を包み込む行為である。私は、アイデンティティを求める終わりなき流浪の民としてボッタリを包んでほどくという行為を通して、絵に関する次元を拡大し概念化してきた。また、これは私個人の生の苦悩の超越を図るものというだけではなく、他者と社会にまつわるアイデンティティと問題であり、さらには分裂し傷ついた魂を治癒し世界が一つになることを願う一つの音無き「クッ(巫女のお祓いの儀式)」としてのパフォーマンスアートでもある。ボッタリは結局一つの体であり、記憶であり、積み上げられた歴史である。そして、ボッタリは一つの結び目でつなぎ合わされた、過去・現在・未来が凝縮された絵画であり、オブジェであり、彫刻であり、そしてパフォーマンスである。
今回の東アジア文化都市2017京都で展示する鏡のインスタレーションも、タブローとしてのイブルボと、物を包む鏡の性質を利用した包み込むボッタリ作業の延長線であることに変わりない。私は平面に向き合う画家として、「画家は自身のアイデンティティを探すために、一生キャンバスを彷徨い続ける者である」というスタンスをいつも持っていて、それは自身の鏡を探すことと同じ行為であると考えてきた。
ハラルド・ゼーマンが監督した第49回ベネチアビエンナーレで、アルセナーレのコルデリエ(Corderier:製縄工場)の最後の壁全体を鏡で包みコソボ難民を記憶する《すべてのものに開かれた、もしくは亡命のボッタリトラック》(1999)という作品を展示した。それは、鏡を通過することのできない想像上の出口としてボッタリトラックの前に置き、同時に300mに達するコルデリエ空間全体をボッタリトラックと共に包むというものである。
今回、二条城に設置する鏡の床は、二条城の伝統的な構造が持っている形式的かつ建築的特徴を包んでほどく作業であり、今回初めて発表する鏡の上に位置する10枚の屏風で作られた《遭遇-鏡の女》(2017)は、絵画の伝統的な形式である屏風を、現代的な鏡のスクリーンとして使用することで、絵画の新たな形式を提示しようとしたものである。そして、床の鏡と共に観客は多重の構造に出会う。鏡もまた、自己解体ないしは拡散をしながら、観客一人ひとりと対面し各自の予期せぬところからアイデンティティと出会うことに関する問いを提示するのである。
国を超えて理解しようとすること
今日のような、破壊的でありながら物質主義を基にした世の中で、既に私たちは差異性が作り出すあらゆる破壊と争いを目にしている。また、政治権力や的外れな財力が、善意と共存という理想的なコミュニティの世界を食い荒らし、国家と世界を麻痺させている。しかも、これに抗い立ち向かったり、阻止したりすることは簡単なことではない。
しかし私たちは、人類が持ち合わせている原始的な善意と兄弟愛、共存のための努力を惜しんではならない。芸術と文化、教育に精通している者たち、そして各宗教のリーダーたちは、個人、社会と国家、さらには世界に、治癒と希望に関するひらめきのメッセージをとめどなく投げかけていかなければならない。悪意が善意を征服する社会では、それこそが人類本然の姿と共存の礎を作るのになくてはならないものである。
今回、東アジア文化都市プロジェクトがそのような役割を果たすことを願い、希望溢れる未来へのインスピレーションをお互いに与え続けることを期待している。
(翻訳:韓河羅、稲垣千里)
Profile
キムスージャ
アーティスト