京都にみる東アジアの足跡Ⅱ 清水寺の創立
このページでは、東アジアの相互理解につながる活動をされている方に、日々の取り組みやその活動にこめた想いについてコラムをご寄稿いただいています。
今回は、井上満郎(いのうえ みつお)先生のコラム、「京都にみる東アジアの足跡」の第二弾です。
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清水寺も京都最大の観光地の一つでしょう。三年坂や門前の参詣道あたりに、人並みが途切れることはありません。
この寺の創立者ははっきりしていて、それは坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ、758-811)です。都が京都にうつる前後の時代を生きましたが、最後は大納言ですから、今でいえば筆頭閣僚に近い地位にまで昇進しました。教科書では東北地方の蝦夷(えみし)の鎮圧に功績を残し、日本の国土を拡大し、安定させた人物として登場します。詳しい経緯は省略しますが、彼が鹿狩りに東山あたりに来て、山中で出会った修行僧、彼は聖なる水の注ぐ滝で熱心に修行していたのですが、その感化によって寺を建立することとなりました。それが清水寺で、寺の名もこの聖なる清い水からきています。

清水寺
坂上氏は、もとは奈良の南の飛鳥(奈良県明日香村)あたりの豪族でした。田村麻呂は父を苅田麻呂(かりたまろ、728-86)といいますが、その父が自分の一族のことを述べて、先祖は中国の後漢の霊帝(れいてい、156-189)だといっています。このままに信じますと当然坂上氏は中国の皇帝の子孫、つまり中国人ということになるのですが、実際には朝鮮半島から渡来してきた一族でした。田村麻呂の父は少なくとも海外の出身だという先祖意識を強く持っていまして、その子として生まれた田村麻呂にもそれはあったと考えるほうが自然なように思います。仏教はインドで発生し、中国・朝鮮(韓国)を経て日本に伝来しました。アジア的な広がりを持つ宗教ですから、寺院が列島外から来た渡来人によって建設されても不思議ではないですが、清水寺はまさにそうなのでした。訪れる人でそのことを知っていただいている方はごく少数ですが、清水寺の背景にこうしたアジアにつながる文化の広がりのあることを忘れないようにしたいものです。
井上満郎先生のコラム「京都にみる東アジアの足跡Ⅰ 嵐山の風景」はこちら
Profile
井上満郎
京都市歴史資料館長