京都にみる東アジアの足跡Ⅰ 嵐山の風景
このページでは、東アジアの相互理解につながる活動をされている方に、日々の取り組みやその活動にこめた想いについてコラムをご寄稿いただいています。
今回は、井上満郎(いのうえ みつお)先生に、「京都にみる東アジアの足跡」を3回に分けてご紹介いただきます。
実は、京都の名所とよばれる中でも、私たちは知られざる東アジアとの深い結びつきを発見することができます。
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京都随一の観光地といってもいい嵐山。四季を問わず人の流れが絶えません。桂川にかかる渡月橋は、京都の名所写真にはかならず登場します。ですがこの風景は、実はそう古いものではありません。だいいち渡月橋が今の場所に架けられたのはたかだか四百年ほど前ですし、もとはもっと上流にありました。「渡月橋」という名は、亀山天皇(在位1259-74)が月の橋を渡る風景をめでたところから付いたというのが定説ですが、この天皇の時代の橋は、今の渡月橋ではなかったのです。ではもともとの嵐山の風景は、いったいいつできあがったのでしょうか。そこには東アジアの人と文化の果たした役割がありました。

渡月橋風景
(写真提供:京都市メディア支援センター)
京都に生まれ育ってそれなりのご年齢の方は、私がそうなのですが、嵐山のあたりの川を桂川と呼ばれると、おおきな違和感を持ちます。渡月橋のあたりの桂川は、やはり大堰川(おおいがわ)なのです。そしてそのように呼ばれるのは、ここに大堰、つまり巨大な取水堰があったからです。その歴史をふまえた名が、地元的には今でもそれなりに残っているのです。

大堰の跡あたり
その大堰を造ったのは、朝鮮半島(韓半島)からの渡来人の秦氏でした。彼らはおよそ1500年ほど前、5世紀ころに日本に渡来し、京都に住み着き、半島からもたらした先進的な土木・灌漑技術を京都に投下して、桂川に巨大な大堰を建設したのです。川を堰き止めることはすぐにでもできますが、そこから長い用水路を引いて、広い地域に及ぼすという用水路建設の技術が当時の日本にはありませんでした。その在来の技術水準を大きく発展させたのが、渡来人の秦氏たちなのです。東アジア世界に背景を持つ渡来人が京都にやって来ることによって大堰が築かれ、後世まで「大井(おおい)」として貴族たちの舟遊びや遊覧の地となる今の嵐山の水辺の風景は、はじめて成立したのです。日々それを認識することはないですが、京都文化の背後には東アジア世界が存在することに思いを及ぼすべきだと私は考えています。
ちなみに平安時代になってこの大堰を修理したのは、やはり秦氏出身だった、橋のたもとの法輪寺(虚空蔵さん)の僧道昌ですが、その記念碑がかつての大堰とおぼしき場所に建てられています。
(Ⅱへつづく)

修理碑
Profile
井上満郎
京都市歴史資料館長